地下足袋山中考 NO13

<尾瀬と森吉山考 その@>

2007(H19)8月に日光国立公園から尾瀬地域が分割し、尾瀬国立公園が誕生(29番目)した。この夏、6年ぶりに鳩待峠(群馬県片品村)から至仏山(2,228m)を目指した。一頃、年間入山者が50万人を超えオーバーユースが問題になった尾瀬だが、その後、減少が続き近年では30万人台で推移している。昨今の経済不況の影響もさることながら、登山ブームの盛況による分散化も一因と見るべきであろう▲この時期、鳩待峠へのマイカーは全面通行規制がかかる。戸倉から始発のシャトルバスは430分に出るが、フットワークの良いタクシーで出発。25分で到着した鳩待峠はすでに観光バスやシャトルバス、乗合タクシーが交差し身支度を急ぐハイカーで賑やかだ。時期的にピークを迎える尾瀬ヶ原経由を避け至仏山直登を目指す▲ブナ林から針葉樹林帯を抜け蛇紋岩の岩綾が連なる小至仏の肩に出ると眼下に尾瀬ヶ原を挿んで燧ヶ岳の全景が飛び込んでくる。稜線を跨ぎ東に日光三山と武尊、利根川源流部のダム群を眼下に明日登る谷川岳の雪渓が怪しく輝いている。小至仏〜至仏間のコルを通過し、行きかう登山客と足場を譲り合い辿り着いた山頂の眺望は、2,000m級の名山が累々と連なるランドスケープだ▲尾瀬ヶ原と鳩待峠からの登山者で大混雑する山頂を離れ、尾瀬ヶ原への下山ルートを降りて見る。この登山道は長年の登山の影響で登山道周辺の植生の荒廃や裸地化など深刻な問題が生じ、平成元年から同8年まで植生復元のため、尾瀬ヶ原の山ノ鼻〜至仏山頂間が閉鎖され、その後、尾瀬ヶ原から登り専用として使用されている。閉鎖にしても、一方通行にしても百名山の銀座コースを、いとも簡単に規制してしまう対応は大胆で尾瀬らしい▲今回、このルートを見たかったのは、同じように森吉山頂〜山人平間の登山道の荒廃と裸地化対策が求められているからだ。至仏山の登山道をみて直感したのは、登山客が残雪期の流水を避けて乾燥した雪田草地(花畑)に踏み込んだ結果の裸地化であることが一目瞭然だった。幅1.52.0mの階段構の登山道は何ら遜色なく、無残雪期(夏〜秋)の一方通行規制は意味が無いと感じた。残雪期に部分ローピングや案内誘導で対応できないとすれば、完全に雪が融けて登山道が現れるまで融雪期の利用規制を実施した方が保全効果は大きいだろう。森吉山頂部東斜面の登山道の荒廃と裸地化対策は、ループの迂回路整備と雨裂対策で対応可能と判断した。▲尾瀬が先進的で大胆な保護策を実行できる環境はその歴史性に秘められている。その今昔を紐解いてみよう。尾瀬が近代史に登場するのは、尾瀬沼と尾瀬ケ原のダム建設計画が浮上する明治30年代である。大正8年に関東水電が尾瀬沼の水利権取得を申請してダム計画は始まる。特に尾瀬ヶ原ダムは大規模となり、当初から尾瀬ヶ原消滅という環境問題に加え戦後は水需要を巡って関東圏(利根川)と新潟県(只見川)の水利権騒動に発展した。政府内部の推進省と反対省の対立もさることながら、戦前戦後の混乱期をとおして、民間では一貫して尾瀬の保護を訴えた平野長蔵氏の功績は大きい。長蔵の死後に山小屋を継いだ息子の長英氏には文化人や登山家が支援し1949(S24)に尾瀬保存期成同盟会を結成。1951(S26)には日本自然保護協会に発展した。こうした自然保護運動は尾瀬の環境保護行政に拍車をかけ、1953(S28)には国立公園特別保護地区に指定。1956(S31)には国天然記念物に、続く1960(S35)には国特別天然記念物に指定された。こうした流れに東京電力は、1964(S39)に管理する尾瀬の森林を水源涵養林に指定し伐採禁止としたことで、1966(S41)3月にダム建設は事実上凍結した。さらに1996(H8)には尾瀬沼の水利権更新を断念し権利を放棄。これにより尾瀬ヶ原のダム計画は消滅した▲昭和41年には以前から計画された尾瀬観光道路開発も始まるが、長蔵小屋の3代目・平野長靖氏らの反対運動が当時、発足し就任したばかりの環境庁長官・大石武一氏(197172)を動かし道路計画は中止された▲長蔵小屋三代に渡る保護運動史は、NHKでドラマ化(尾瀬に生まれ尾瀬に死す)され尾瀬の存在と価値を高めた。鉄道も観光道路もない、日本一不便であった「はるかな尾瀬」は、回廊型自然散策の聖域として、訪れる人々を魅了し続けている。(次号に続く)

(資料:環境省尾瀬国立公園指定書及び公園計画書)(2010.7.31